ENRICH(エンリッチ)

The Style Concierge

マカオ 3/3 
マカオのカジノに未来はあるのか

ここまで2回にわたってマカオについて紹介していましたが、最終回はマカオのカジノリゾートとしての発展の軌跡そのものと言えるカジノ王スタンレー・ホー氏の人生を通じて、これまでのマカオの歩みを振り返り、さらにはマカオの将来をカジノリゾートの運営サイドの視点から占います。(マカオの初回から読む

エンリッチ マカオ グランドリスボア

スタンレー・ホー氏は、現在94歳と超高齢ですが依然マカオのカジノシーンで大きな影響力を持っています。ホー氏は13人兄弟の9番目の子供として生まれ、幼少期はあまり勉強ができなかったようです。当時の香港では、学力に応じてA~Dまで4段階に分けられていましたが、ホー氏は最低ランクのDクラスに入れられていました。しかし、大学受験前になって後のビジネス界で成功する片鱗を示して猛勉強に取り組み、香港大学のスカラシップを取るまでに成績は急上昇します。ちなみに、Dクラスからスカラシップを受けるまでになった生徒はホー氏が初めてだったようです。

第2次大戦の勃発によりホー氏の大学生活は短く終わり、当時香港を占領していた日本の会社で事務員として働き始めます。中国本土とマカオ間で高級品をやり取りしたことで私財を稼いですぐにこの日本の会社をやめ、1943年に自分の建設会社を立ち上げます。

この建設会社はうまく行き、マカオ政府のプロジェクトも手掛ける中で関係も深めていきます。そして、1961年にビジネス仲間たちと約41万米ドル(約4,500万円)で、マカオでのカジノの独占的な運営権を取得します。当時のホー氏にとっては大きな投資だったでしょうが、これがのちに何百億円/何千億円の利益を生んだと考えると破格の安さだったといえます。

ホー氏はカジノホテルであるリスボアを開業し、香港・マカオだけでなくアジアで大人気となります。リスボアからの収益を元に事業を多角化して、香港とマカオ間の高速フェリーやマカオの港湾施設の運営権、さらにはマカオの競馬場など様々な施設を自社グループに組み入れていきます。最盛期にはマカオの全雇用の4分の1を、ホー氏の企業グループが生み出していたとされています。1998年にマカオがポルトガルから中国に返還された後は、ホー氏の功績をたたえて彼の名前を取ったストリートまで誕生しました。

2007年には旗艦ホテルとなるグランドリスボアを開業してホー氏の勢いは最高潮となります。グランドリスボアは中国で共に縁起が良いとされる金色の卵の上にハスの花を模した形の奇抜なホテルで、今でもマカオの象徴として知られています。著名なフランス人シェフであるジョエル・ロブション氏のレストランも入居して、開業当初はマカオの新時代を象徴するホテルとして大きな話題となりました。ただ、前々回のコラムでも紹介したように、最新の外資系のカジノリゾートと比較すると内装も派手すぎてセンスに欠け、先日訪れた時はカジノフロアも閑散としていました。

このように50年以上に渡ってマカオのカジノを牛耳ってきたホー氏ですが、必ずしも国際的な評価は高くありません。ホー氏とチャイニーズマフィアとの関係についてはかねてから度々糾弾されています。今は閉店されましたが、上記のグランドリスボアにも開業当初は風俗サービスを提供するフロアがあったことも、5つ星の高級カジノリゾートとしてはあり得ないこととして海外メディアからは大きな批判を浴びました。

マカオが頭打ちとなるタイミングと時を前後して、近年のホー氏にはあまり良いニュースがありません。最大のゴシップとなっているのは後継者争いです。2009年に病に倒れて脳の手術を受け、車いすを利用しなければならなくなったホー氏は以降ほとんど公の場には姿を現さなくなりました。ホー氏には4人の奥さんと17人の子供が居ますが、ホー氏の体調が悪化してこれら親族の間で後継者争いが勃発して法廷闘争にまで発展しました。一応、この後継者争いは決着したようですが、近年のマカオのカジノ売上の低迷を受けてホー氏のカジノ企業であるSJMグループの収益も悪化しています。現在、SJMグループは来年の開業を目指してリスボアパレスという中世のヨーロッパのお城を模したデザインの新しいカジノリゾートを建設中です。

岡村聡

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